1954-08-06 第19回国会 参議院 経済安定委員会 閉会後第2号
従つて長崎干拓に関しましては、一応世界銀行のほうへ、こういう計画があるという程度で出したものの、只今すぐ実施設計が完了するかということになりますと、まだまだ暫らくの間検討を続けなければならんという段階でございます。御参考までに申上げますと、今の大ざつぱな計算では、この長崎干拓の完成に必要な資金が約三百十億円ございます。二百十億円かかる見込になつております。
従つて長崎干拓に関しましては、一応世界銀行のほうへ、こういう計画があるという程度で出したものの、只今すぐ実施設計が完了するかということになりますと、まだまだ暫らくの間検討を続けなければならんという段階でございます。御参考までに申上げますと、今の大ざつぱな計算では、この長崎干拓の完成に必要な資金が約三百十億円ございます。二百十億円かかる見込になつております。
而も今日になつて長崎の二百十億でヤンセン教授の案だというので出したやつがある。又百五十億くらいにして、堤防もまだどういうふうにするのだかわからん。その締めきつた中の干拓の面積も前には七千三百町歩くらい、六月に出したのが今度は五千三百町歩なのだというのでは、調査に来た人はどうすればいいのかわからないと私は思うのです。
たとえば今のお話のように共済組合は、共済組合の利益を守るために、たとえ一銭でも多くの配当を要求する、あるいは希望するということは当然なこと、従つて長崎総裁はその共済組合の出資を通じて、国鉄会館の利益増進について強力な主張をする、あるいは権限を持つ立場にある。でなければ共済組合の利益は守れない。ところがそういう強力な発言をされることは、逆に国鉄自身の経済的な譲歩を余儀なくされる。
従つて長崎総裁と加賀山さんとの間に、初めはプランニングの御相談として持上つて、だんだんと話が進み、皆さんの御相談によつてこういうふうな経過をとりましたことは、私自身としてはあまり下自然に考えなかつたのであります。
ただ滞在しましたのが中三日でありましてその間長崎とそれから大分県は、私は参るつもりで機上の人となりましたが、途中で降雨になりまして、パイロットの申入れによつて長崎は途中から引返し、なおまた大分地区は日田地区の途中まで参りましたが、何分にも大分地区その他は飛行場の設備がありません。
例えば私は海上保安隊の船に乗つて長崎の港内から港外まで廻つて見たのですが、尤も小さいランチですけれどもが、たつた一人しか乗つていない。船長兼運転士といいますか、一人切り、心細いことこの上なし、波が出まして振り廻わされながら見て参つたのですが、その人らに聞いても、海上保安隊のほうでは船がなくて困つておる、ぼろ船なんですね。このほうとの何か実際上の関係はどうなつておるのですか。
しかし野放しの貿易で、共産党が金をもうけて革命資金をつくつては困るから、共産国との貿易においては、国家の管理貿易会社をつくつて、長崎とか博多、あるいは門司でもどこでもよろしい、政府が適当なところを開港場として、そして中国の商人をそこへ迎える。向うも大きな貿易は管理貿易でありますから、それで旅館を指定して、旅行の自由を許さない。日本からもそのかわりに上海や青島あたりの開港を要求する。
話合いが若しつけば、長崎としましても帰つて長崎の県当局、知事さんなり或いは地元に相談して見ていいということになれば、円満に入れよう。それまでは即答いたしかねるということで持ち帰つております。
これは総合大学になる前には、長崎医科大学であつたのでありますが、御承知のごとく、あの原爆によつて長崎が廃墟と化した、当時長崎の浦上というところに、この医科大学の校舎があつつたのでありますが、原子爆弾によつてこれがふつ飛んでしまつたわけであります。そこであの原爆によつて長崎市は十万以上の死者あるいは重傷者が出ましてこれが早急に治療を施し、あるいは看護治療の必要に迫られたわけであります。
○鈴木直人君 私達は柏木議員、城議員並びに私と三名を以て四月十一日から二十日まで、十日間に亘つて長崎、佐賀、熊本縣下において墾談会を開催いたしたのであります。
從つて長崎なら長崎、佐賀なら佐賀に地区部会ができたときには、その地区部会が地方炭鉱管理委員会と同じ働きをするのでありまして、この働きの決議が地方炭鉱管理委員会と同じことになるのであります。
從つてこの被害を蒙つたことによつて、長崎、廣島兩市は、この復興においても非常に大きな障害を來したのであります。と申しますのは、原子爆彈というのは、大きな火力によつて、まず爆心地の近くはほとんど燒かれてしまうのであります。道を通つておる人は燒け焦げて死ぬ。火力によつて燒かれるということと、大き爆風によつて家屋が倒壞するということ、もう一つは放射物質によつて人間の内臓が破壞されるのであります。